――それで、因幡さんをはじめ仲間たちに触発されながら、オリジナル曲を作ってゆき、どういう形であの『mariko』というデビュー・アルバムにたどり着くわけですか。あれは因幡さんが作ろうと言ったんですか。
「うん。最初は作品にしようとかは全然思ってなくて。オリジナルも結構書いて、ビーハイブで発表するぐらいなことで満足してたんですけ。でも、彼がプランクトーンから自分の最初のアルバムを出して。でアルバムの面白さみたいなのを彼がわかったみたいで。アルバムを作るって面白いぞって。そうなの、じゃあ、がんばってね、みたいな感じだったんだけど(笑)。そんな頃、私が離婚したりして、もう一回結婚しようと思ったけど、失恋して、みたいな流れがあって、けっこうつらい時もあって…その頃ぐらいにちょうど、おまえ、オリジナルもたまってきたから作らないかみたいな。それで、アルバムのために書いたんじゃなくて、既に書き溜めた曲の中から選んで」
――『mariko』の曲は既にあった曲なんだ。
「もう、全然前から。だから、作った時期はいろいろなんです。〈mariko's BLUES〉はずっと古いし。それで今、持ち曲何曲ある?って訊かれて。私はだいだいライヴなんかでもスタンダードのカヴァを中心にやってたんで。あと、昭和歌謡とか。いいなと思う、歌いたい曲は全部やってた。でも、オリジナルは、そんなになくて30曲ぐらい。全然つまらない曲も入れてですよ。で、とりあえずあるやつ全部録音して、その中から選んで。ピックアップした曲は、因幡さんと私、だいだい同じだったんですけど」
――最初から完全にピアノの弾き語りでいこうってことだったんですか。
「私はそれ以外やったことなかったし」
――『mariko』の歌詞は、基本的には実体験なんですか。
「ちょっと誇張しているところがあるかもしれないし、作為的なところもあるかもしれないけど、まあ、実体験を元に書いた感じです」
――〈AMERICA〉とかも。
「そうそう、アメリカ人とつき合ってたんですよ」
――あー、そういうこと。
「ウッディっていうんですよ。だから〈WALTZ FOR WOODY〉。あれはつき合っている時に誕生日かなんかに書いた曲で。で、ビル・エヴァンス〈ワルツ・フォー・デビー〉をもじって。本当はウッディという名前は、与作というか、ちょっとダサめなきこりの名前みたいな響きなのに、その人にワルツを送るなんて本当は変なんですよね。しかも男に。〈ワルツ・フォー・デビー〉は娘に贈るみたいな。だけど、ウッディーて名前、最後のほうが似てると思って。イントロも似たような風にしてみて。真似っていうのとはちょっと違うんですけど、敬意を込めて」
――ウッディは今でもこちらにいるんですか。
「いや、アメリカに。ビザが切れて帰らないといけなくなって。それでお別れしちゃったんですけど」
――向こうに娘さんと一緒に行くとか考えなかったんですか。
「いやー、その時は、彼も帰って仕事ないし、そういう風にこられても僕は自信がないし…、みたいな。私も行っても知り合いもいないし。今はいいけど、いつかそれは駄目になるなっていう感じで」
――彼は音楽には関係なかったんですか。
「うん、関係なかったけど、アメリカ人として聴いてる音楽なんかは、私たちには新鮮な部分もあって。彼はオハイオ州の出身だったんで、カントリー系なんですよね。私、1回会いに行ったんですけど、CD屋さんにカントリーのコーナー凄いんですよ。ばーっと、もうワンフロア全部カントリーみたいな。で、カントリーは元々好きではあったんで、そういうの教えてもらったり、シカゴ・ブルースを教えてもらったり。なんか、友達の持っている音楽を全部いただくというか、因幡君もそうだけど、ビーハイブで会った人も各々得意分野があるから、私はこだわりなく受け入れて、それもいいね、それも聴いてみようと」
――『mariko』は基本的に一発録りですよね。
「うん。1日に1曲録音するっていうやりかたで。録音場所が1日2時間しか借りられなかったんですよ。だから、この2時間で1曲録音するぞ、みたいな感じで。で9週使って9曲録って。2ヶ月半ぐらい。エンジニアをやってくれたプランクトーン・レコードの主宰者の持田さんも他に仕事してたし。だから、土曜日の夜とか日曜日ぐらいしか。あれは、3人だけでやったから楽しかった」
――持田さんがエンジニアをやったんだ。
「そうそう。最初は私の自主制作盤ということで、私がお金出して、持田さんに録音お願いしてやるってことになってたんですけど。私もともと、CDなんて自分でお金出してまでして作るもんじゃないんじゃないの、みたいな感じだったんですけど…。で何曲か録音が終わった時に、持田さんが、うちのレーベルから出しましょうと言ってくれたんです」
――持田さんは、プログレってことにこだわってるみたいだけど…
「そうそう。だから私の中のプログレ性を彼が無理やり見つけたんだと思いますけどね(笑)」
――(笑)強引だね。
「〈SEPTEMBER〉を録ったあたりかな。これは自分とこでやりたいと。私としては願ってもないことだし。私はその時までインディーズのこととか全然知らなかったんですよ。そういう世界があることも知らなくて」
――自分の表現において、プロデューサーでもある因幡さんから受けた影響なり恩恵ってありますか。
「彼にはねえ、言葉で言えないぐらいいろんな影響を受けてると思う。彼に言わせると、どういう時期にどういうのを私に聴かせるかっていうのを自分で考えながらやってたみたいで。調教みたいな。特にインディーズの世界を教えてくれたのがすごいうれしかったな。多分、彼がいなかったら知らないままだったと思う。あと、彼がCDを出したのにずーっと変わらず田舎に住んでいるのもすごいなと思っていたし」
――ファーストが完成した段階で、まわりの人からはどういう反応が出ましたか。
「最初、500枚作ってね、300枚は自分たちで売ったんですよ、友達とかに。だから全然、東京とかにはなかったというか。反応はいろいろでしたね。それこそ立ち直れないぐらい厳しいものもあったし。つまらんとか。で、もう泣いたりとか(笑)。でも、だいだいの方はいいと言ってくれて。あと、なんで英語なのって言う人もいたり」
――皆ががこぞって大絶賛というわけでもなかったんだ。
「ないない」
――意外だな。
「OZディスクの田口さん(田口史人。最新アルバム『あなたへ』のプロデューサーでもあるOZディスク主宰者にして美音堂の代表。なお、ファースト・アルバム『mariko』も、今年美音堂から紙ジャケに変えて再々発された)が、一番最初に雑誌で書いてくれたんですね。持田さんがOZとはつながりがあって送ってたみたいで。そしたら少し評価が良くなってきたかな。いろんなところでも。でも、なんせ品物がなかったので、もう、すぐに廃盤になって。で持田さんはもう再プレスしないと言ってたし」
――『mariko』の再発って、結局…
「去年(2000年)の4月。だから3年間なかったんですよ」
――自分としては、完成した時にこれはすごいものができて大評判になるんじゃないかっていう気持ちはありませんでしたか。
「いや、ないです。ていうか、いつもやってる、これで十何年私はやってきて、その延長って感じで。だから、取り上げてもらった時はビックリした」
――もうちょっと劇的に状況が変わっていった時期があったと思うんですけど。
「それは再発以降ですね。最初の発売の時、300枚も地元で売っちゃうってことは、全国的にはほとんどどこにもないっていう感じだったと思うんですけどね」
――去年の4月に再発されてからは一気にバーッて感じですか。売上げ的にも評判的にも。
「タワー・レコードがすごく押してくれて。渋谷店の担当の方が気に入ってくれたということで。そのちょっと後に法政大学のライヴもあったのでタイミング的に良かったかもしれませんね。インターネットのホームページ、あれも4年ぐらいやってて、ホームページの掲示板とか最初は誰も来なくて。じゃあCDプレゼントしますって募集しても、来たのは8人とか(笑)。それぐらいだったんですよ」
――いろんな意味でがバーッと変わっていったのはほんの1年ちょっと前ってことですね。
「バーッと変わってんのかなあ(笑)。こっちではラジオとかでも全然かからないし。ただ最近は、ライヴをするとたくさん来てもらえるんで、これはどうしたことかと。真理子は知らないと思うけど、なんか東京のほうでは流行ってるよって声も友達から聞いたことあるけど、そうなのって。こっちにはタワー・レコードとかもないし」
――自分としては、そんな実感はないと。
「うん。ないない。ただ、掲示板なんかにアクセス数が増えたりとかは。タワー渋谷店の試聴機の威力ってのはすごいですよね」
――ほんと、近年例がないぐらい、いわゆる草の根的な口コミで広がってるんですよね。
「どっかのバーに行ったらかかってて、これ誰?ってパターンがものすごく多いみたいで」
――そうそう。そういうお店とか、ライヴ会場のBGMでかかってたりとかね。
「あとJ−WAVEでも取り上げてもらってたりして、“あの人は誰だ、真理子を探せ”ってコーナーを作ってやってましたよって、掲示板で教えてくれて(笑)。そのDJの人も書き込みにこられて、東京に来た時にはラジオ出演してくださいって。大阪だとFM802が応援してくださってて」
――ファーストに対する評価、人気で、生活上なんか変わったことありますかって訊こうと思ったんだけど…無駄ですね、きっと。
「ちょっと、鼻が高くなったり(笑)。どうですかね。そんなにないですよ。変わりたくもないし。恥ずかしいっていうか」
――まだ、実際そういった人気に対する実感はないわけですよね。
「親戚とか親とかにはメチャメチャ自慢してますけど、自分で。それぐらいですよね。会社でも普通の扱いだし」
――会社って、どういう?
「IT化の下請けで、昔の役所の書類なんかをパソコンに入力するデータ入力会社なんです」
――そこで一日、入力してるんですか。
「野麦峠なんです、現代の。エレベーターの中で死んでいく」
――そこはもうずっとやってるんですか。
「ちょうどアルバムを出すぐらいの時から。それまでは古本屋にいたんですよ、パートで。まだ子供が小さくて。私、離婚して、初めてちゃんと働いたんですよ。それまではラウンジでピアノ弾いたり、イヴェント行ったり。結婚もしてたし。だけど離婚したから、保険とかもいるわけで、それで保険付きの本屋さんにパートで入ったんです。で、子供が小学校に上がるから、いつまでもパートじゃいけないな、お金もかかるしってことで、ちょうど募集があったんで職業訓練校に行って、パソコン覚えようと。スイッチはどこですかっていうぐらいの初心者だったんだけど、そこに半年ぐらい通って。今の会社は、50人募集で、50人女の子が入って。募集は28歳までだったんだけど、私は33歳で。今でも一番歳上」
――今の会社は今後も続けるつもりですか。
「うん。会社自体が、今やってるプロジェクトが終わったら何をするのか具体的に決まってないらしくて、もしかしてなくなっちゃうかもしれない感じなんで、新規事業を開拓しなければっていつも言ってるんですけど。とりあえず今、わりと楽というか、家に持ち帰らなくていいし、人間関係も楽だし。人数が多すぎて、女の子が30人も40人もいたらあまりけんかにもならない感じで」
――定収入はあるしってことですね。
「そうですね。安いけどね。初めてボーナスをもらう仕事。あー、こういうものなのか、源泉徴収ってこういうものなのかって」
――今度のセカンド・アルバムが出て、名前がより広がってゆくと、もっと本格的に、例えば拠点を東京に移して、本当のプロ・ミュージシャンとしてやったらどうですかって誘われる可能性が高いと思うんですけど。
「今までもね、あったんですよ。何回も。ファーストの再発をした時にもいろんな人からメールが来たり、電話がかかってきたりして、直接誘いがあったし、その後も、『SO FAR SONGS』(2001年にOZディスクから出たうたもののオムニバス・アルバムで、浜田真理子も「港の見える丘」をギターで弾き語りしている)を出してた関係でOZの田口さんにもあったらしい。プランクトーンにもあったみたいだし。でちょっと収拾がつかないぐらいだったんですよ」
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