――因幡修次さん(『mariko』をリリースした出雲のインディ・レーベル、プランクトーンやPSFなどからアルバムを発表している出雲在住のシンガー・ソングライターで、『mariko』のプロデューサーでもある)との出会いは、まだずっと先ですか。
「そうですね。わたしが結婚して子供生んで、その後」
――しばらくは家で子育てをやっていたんですか。
「子供が生まれてちょっとぐらいですね。それから、また父の店に手伝いに行ったりしてて、そのちょっと後かな」
――お父さんのお店の手伝いというのはピアノ弾いてたんですか。
「ピアノの弾き語りをしてました」
――じゃあ、やっぱり基本的にはずっとピアノ及び弾き語りをやってるわけですね。
「はい。その父の店で。思えば、高校生の頃から時々そこでやってたんだな。今日は春日八郎さんが来るからと、呼ばれて行ったりとか。既に中学の頃から歌の伴奏は出来たから」
――そういう意味ではキャリアはすごい長いわけだ。
「うん、歌判は長いですね。弾き語りを本格的にやり出したのは大学の時からだけど」
――たとえば大学時代なり、卒業して鳥取のクラブ時代なりに、周りですごいね、みたいな声はありました? あなたプロになったほうがいいわよ、とか。
「胡散臭い人が近寄って来たことはあったな。僕は東京でこういう仕事してるんだけど、君はいいねとか、そういうのはありましたけど、それはニセ者かもしれない」
――鳥取時代ですか。
「大学生時代かな。でもそれは、だから僕のホテルの部屋は、っていう…」
――(笑)
「部屋にもっと詳しい資料があるから、とか。でも騙される人は騙されるんだろうなって。私は行かなかったですけど。というか、プロとかそういう気もなかったし。その頃はジャズ・ピアニストにはなろうと思ってたけど、歌のことはあんま考えてなかったですね。歌は、まあ歌えるから歌ってる、ぐらいな感じで」
――チャンスがあれば、ジャズ・ピアニストとして大阪なり東京なりに出て勝負したかった?
「ちゃんと勉強してないから、ちゃんと勉強しに行きたいなとは思ってました」
――というか、いわゆる芸人として大きな場所に出て本格的にやってみたいっていう意識はなかったんですか。
「うん。なかった。っていうか、今もない(笑)。どこにいてもうまい人はうまいと思うし。刺激という面では東京はすごい魅力的だったけど、島根で弾いててうまかったら同じだと思う」
――それはつまり、本当に人に訴えかけるものを持っている実力のある人は、どこにいても、聴く人が向こうからやって来る、そういう意味ですよね。
「やって来た時に、これは本物だってわかるはずだし、それは別に東京にいなくてもいいことだろうと思った。やっぱり本物はどこにいても本物だと思うし」
――それは一種、自信と受け取っていいんですよね。
「いや、わたしが本物だという意味ではなくて。実力も自信もないのにスターになっても虚しいだけっていうか。実力が伴ってスターなら、それは、まあご褒美としてあるんだけど。自分にはまだ、それはないと思っていたし。本物になりたいと思った。いつか」
――子育てしながらお父さんの店を手伝ったりしてる時に因幡さんとは出会ったの?
「そうですね。ビーハイブというお店に遊びに行くようになって、そこで知り合って」
――それは、ジャズ・バーみたいなところですか。
「ちっちゃいお店なの。初めて行った時は、あら、こんなとこにピアノがあるわっていう感じで。でマスターにちょっと弾かしてもらってもいいですかとか言って。そしたらそこに修次なんかもいて、なんか怖そうな人がずっと見てるけど、なんだろうって」
――因幡さん、当時から金髪ですか。
「金髪ではなかったけど、もっと長くて」
――いつぐらいの話ですか。
「それは10年以上前…かな。子供が生まれたのが平成2年だから、それは3年か4年ぐらいだと思う。それまで私はずっとジャズって感じだったんだけど、そこに行ったらいろんな人がいて、ギター弾いて」
――初めて因幡さんと会った時、あなたの弾き語りに対して因幡さんがどういう風に反応したか記憶にあります?
「とにかくずっと睨んでて。お前はなんだー、みたいなことを言われた気がするけど。何者だ、みたいな。自分も松江に住んでたんだけど、それだけピアノで歌えて今まで何しとったんだ、どこにいたんだ、みたいな」
――それはつまり、ただもんじゃないなお前は、っていうニュアンスね。
「うん、そういうことも言ってた。因幡君はずっと毎週のように出雲からそこに通ってて、開店から閉店までいて。ジャカジャカとギターを弾いて。まだ、彼もその頃はオリジナルだけじゃなく、長渕剛の歌とかも歌ってて。今は恥ずかしいかもしれないけど。いろんな人が来て、オリジナルとか発表していく場だったんですよ。で私、気づいたらオリジナルがなくて。例の学級歌しかなかったわけだから。で、わりとブルースやってる子が多かったんですよ、その頃。私も、ブルースもいいなと、聴いたりして」
――その場で因幡さんやその仲間たちに刺激を受けながら、ブルースを聴いたりとかオリジナルを作ったりし始めたと。
「そうそう。全然普通の仕事をしている人たちがパーッと週末集まって来ては、今日は新曲がありますとか言って演奏したりして、みんなすごいなあと思って。私も音楽の仕事はずっとやっていたけど、そんなことは考えたこともなかったし。結構、自意識が強いもんだから、そんな、君が好きだー、みたいな恥ずかしい歌詞を自分で書いてつまんないメロディつけたりするぐいなら、スタンダードでいい歌がいっぱいあるし。私は、それを全部知って、自分に取り込んで、それからだろうという感じもあったの、最初は。だけど、なんかみんな楽しそうだし。〈Mariko's BLUES〉を一番最初に作ったんですよ」
――学生時代からジャズのスタンダードを聴いたり勉強したりしていた頃、一番好きだったジャズ・シンガーとかジャズ・ピアニストは?
「いっぱいいますけど。最初はバド・パウエルが好きで。だけど、だんだんウィントン・ケリーとかシンプルな方が良くなってきて。まあビル・エヴァンスとかの、あの美しい感じも好きだった。あと、歌はビリー・ホリデイですね。でもビリー・ホリデイの良さがわかるまでには何年もかかったと思う。ビリー・ホリデイってのは大御所だっていうのをどの本読んでも書いてあるから、ビギナーとして買ったんですよ。最初に買ったやつが、もう声がガラガラになった、死ぬちょっと前のアルバムで。初めて聴いた時、全然、どこがいいんだという感じで。他のアルバム買っても別にどうってことない。歌い上げるタイプでもないし、なんか、これ良さがわからんなー、みたいな。その頃は、阿川泰子さんとか、そういうお洒落な感じのものが流行ってたっていうのもあったし。といって、それがいいとは思ってなかったんだけど、いやーなんか違うだろう、でも、こっちも違うだろうって。で、いろいろ聴いて、一番最後にもう一回、自分も本当にジャズをやりだしてから、ようやくビリー・ホリディに至ったという」
――クラシックはもうあんまり聴いてなかったんですか。
「あの頃はあんまり聴いてないですね」
――今、そこの棚をちょっと見たら、多少あるけど。
「うん、ちょっと近年ね」
――バッハとかが多いのかな?
「何が多いということもないんですけど。チェロが好きなんですよ。チェロの音が。それこそ因幡君に教えてもらって。いいのがあるからって。あの人もすごいいろんなの聴いてるから、彼に教えてもらったのがいっぱいありますよ。私はどちらかというと、偏ったものしか持ってなかったので」
――僕の印象なんだけど、真理子さんの音楽はすごく黄昏ていく音楽という感じがあって、そこがちょっとマーラーに近いのかなと思ったんですよ。マーラーを昔、すごい聴いてたのかなって。
「私、クラシックは、これ聴いてなにとか、そんなのあまりわからない。弱いです。ピアノやってると、クラシック好きですかとか訊かれますけど…。最近は、聴いてみたら良かったと思うものもあるけど。オペラとかね」
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