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【2】目指すはジャズ・ピアニスト

――大学は島根大学ですね。

 「学校の先生になりたいと思ってたんですよ。幼稚園課程というとこに入って。幼稚園課程というのはもちろん幼稚園の先生を養成するところなんだけど、同時に小学校の免許も合わせて取れるようになってて。小学校の先生になってる友達も多いですけど。で、とりあえず入ったんだけど、教育実習とか行って…。あれで、本当になろうとする人とやめる人に分かれるっていうのを聞いてたんですけど、私はやめる人でしたね。それは何故かというと、生徒に好みが出来ちゃって。自分の中でなるべく公平に扱おうと思っても、やっぱり好きな子とかお気に入りの子とか、ちょっとこの子は苦手だなみたいなのができちゃうんですよ。で、そういう心のまま先生になっちゃいけないんじゃないかと思って、あきらめた」

――じゃあ、その段階で他に職を考えたんですか。
 「ちょうどその頃に、元旦那と知り合って。彼、ジャズなんかを弾いたりしてたんです、地元で」

――彼も同じ大学の人だったんですか。
 「いやいや、もうずっと歳上で、バイト先で知り合って。ミュージシャンというかバンドマン。でその時初めてジャズとかを知って。あ、こういう音楽があるんですね、みたいな。その時までは洋楽は聴いてたけどジャズは全然聴いてなくて。アドリブでいろいろやっていくとかそういうものなのか、みたいな」

――今は別れたその旦那さんに最初聴かせてもらったのがどんな曲だったか覚えてますか。
 「スタンダードですね。誰のとかは憶えてないけど、ヴォーカルもの。あと、島根県出身の世良譲さんとか聴いたりしてすごいなって。最初、何を聴いたらいいかわからないでしょう。だからオムニバスを買って。あの頃はCD、3800円ぐらいしたんですよね。買えなくてね。学生の頃。だからいつか大人になったらCDをいっぱい買える人になろうみたいな(笑)」

――まさか自分自身がCDを作る人になるなんて…
 「全然思わなかった」

――大学時代もバンド活動とかは全くなかったんですか。
 「ないない。大学に入っても1年間はバドミントン部にいたから。もう、おはようござますっ!、失礼しますっ!みたいな体育会系のノリで」

――元旦那さんと知り合ったバイトって?
 「あれは3年生ぐらいの時。ホテルにピアノ・ラウンジがあってそこでウエイトレスをやって」

――ピアノを弾くほうじゃなくて。
 「彼、そこのピアノの先生だったんですよ。私より16歳上なんで、もうオジさんだったんですけど」

――じゃあ、元旦那さんが真理子さんの最初のジャズの先生でもあったわけだ。
 「うん。こういうの聴いたらとか、こういう風にするんだとかっていうのを教えてもらったというか…それらしい感じで弾くんだ、みたいな。彼こそバンドマン。GS時代にギターやってて、ムード歌謡の時代には仕事がいっぱいあった」

――その出会いから一気にジャズにはまっちゃった感じですか。
 「そうですね。その時は周りでもジャズはあんまり聴いてなかったし、誰も教えてくれない。だから元旦那とこういうのがいいねとか。ただ、その時は元旦那の世界だけというか、彼の知らないことは私も知らないしっていう感じだったけど、だんだん自分で聴いていって、好きとか嫌いとか、良いとか悪いとか思ってきて、またちょっと違うものを自分で聴いたりとか。それでジャズ・ピアニストになろうと思ったわけ。先生になるのをやめて。でも、どうやって習ったらいいのかなって感じで。それでとりあえず、ここらあたりのパーティーの仕事とか出たりして、自己流で弾いてた」

――いきなり自己流。
 「うん。インチキ」

――そういう仕事が結構あったんですか。
 「結構ではないですけど、時々。もうカラオケに押されてたけど、のど自慢の仕事とか。パーティーの仕事とかはホテルでわりとありましたね」

――どういうつてで仕事が舞い込んでくるわけですか。
 「やっぱり、元旦那のつてで。彼がライヴする時一緒に出たり」

――先生になるのをやめて卒業したけど、就職はしなかったわけだ。
 「卒業したら東京に行ってジャズ・ピアニストになろうって決めたんですよ。で父親にすごい叱られたんだけど。就職活動もしないで遊んでるみたいな感じで。教育学部だったんで先生になるものと思っていたらしく。先生にならなくてもOLとか」

――お父さんは堅い仕事に就いて欲しかったんだ。
 「ジャズ・ピアニスト?って感じだったんじゃないのかな。急に言い出したもんだから、私も」

――特に地方に住んでいると、ジャズ・ピアニストとかいわれても実態がよくわかんないだろうしね。
 「バンドやってる人とかは父の店にも出入りがあったり、知り合いもいたりしたんだけど、急に東京に出てどうやるんだって。普通の親が心配するような。私は、東京に行けば多分ジャズの学校があるから、どこかに入ってやり方を教えてもらえばいいかなと思ってた。で結局、それで説き伏せて。まぁ、しょうがないかと」

――で、行ったんですか、東京に。
 「いや、行かなかった(笑)。その前に旦那が鳥取に行ったんですよ。仕事で。で、とりあえず私も一緒に鳥取に行って」

――その時はもう結婚してたんですか。
 「いや、結婚はしてない。卒業してすぐついて行って、一緒に住んでたんです。で、お金貯めて東京に行くつもりで、とりあえずクラブで弾いてたんですよ。電話帳見て片っ端から電話して、ピアニストいりませんかって感じで。で、結局、鳥取市内で一番大きいところだったんですけど、行って何曲か弾いて歌ったら気に入っていただいて、明日から来なさい、みたいな」

――そのクラブっていうのは、もちろん…
 「ナイトクラブ。今どきのクラブじゃないですよ」

――うんうん(笑)
 「ホステスさんがメインのお店です。紳士が来て。紳士はあんまりいなかったけど(笑)。紳士淑女の社交場。スナックというのとは違うんですよ。全部ボックス席で。こうとか(指をならす)やるとウエイターさんがひざまづいて。あと何番になんとかちゃーん、って」

――で、紳士が、酔っ払ってくるとブランデー・グラス持って、一曲弾いてくれよって(笑)。
 「そんな感じ。めちゃめちゃ生臭いですよ。あー、ここに染まっちゃいけないな、みたいなね。ここでは働くけど心は売っちゃいけない、とか思いながらがんばろうって。2年ほどやりましたね」

――ギャラは良かったんですか。
 「ホステスさんと同じぐらい。一晩1万ぐらい。都会の相場とは違うと思いますけど。たとえば大学卒の初任給が15万ぐらいの頃だから、一晩1万だったら、半月行けばいいわけです。今はもう全然逆転したけど、当時は大学の同期の人より私のほうがいいギャラをもらってた。しかもそれ、短時間でしょう。8時、9時、10時に30分づつだし」

――それだけ?
 「うん。8時前に行って、ドレスみたいの着て、で30分やって、残りの30分はカラオケ・タイムなんですよ。だから後ろにひっこんでバーテンさんとしゃべってて。お客さんがいようがいまいが」

――そのカラオケ・タイムの時に要求されればピアノの伴奏をするということですか。
 「いや、私の演奏時間に要求されれば伴奏する。次第にそれが増えてきて、私の歌はもうほとんどなくなっていった。カラオケがあるんだからカラオケで歌えばいいのにと思っても、いやピアノじゃないとって。最初は〈マイウェイ〉とか〈昴〉、〈ラヴ・ミー・テンダー〉とか〈想い出のサンフランシスコ〉とかそういうのを歌いたがる人だけがやってたけど、あいつがピアノで歌っているなら俺もって、〈さざんかの宿〉とかをね」

――景気のいい頃ですよね。
「うん、バブル期。80年代の後半。土建屋さんなんかもいっぱいで。もう英語の歌はいいからみたいな。私も、お金稼ぎガンバロー、みたいな。でも楽しかったですけどね。ホステスさんは怖かったけど。最初はいじめられたりしてね。芸があるといいわよねー、とか厭味言われて。その時は泣いて帰ろうかとも思ったけど、でもチクショーとか思って。ホステスさんが持ってきたリクエスト飛ばしたりとか、姑息な手を使って仕返ししたり」

――2年間そこでやっている間に結婚したんですか。
 いいえ。その2年間に昭和から平成になって、父親が松江市内のホテルでピアノバーをやるから帰ってこいって。で旦那と一緒にピアノバーだったら手伝えるからということで戻ったら、すぐに妊娠しちゃって。で結婚して。そしてら今度は父が脳梗塞で倒れちゃって、その新しいお店はできなくなったんだけど」

――結局、ジャズ理論とかジャズ・ピアノの弾き方をちゃんと専門家に習ったことは1回もないわけですか。
 「いや、あるある。ちょっと前後しますけど、鳥取に住んでいる時に、東京のあるジャズ・ピアニストの方にちょっとだけ習いました。その人の本を読んで面白かったんで手紙を出したら、じゃあ習いに来なさいよって。お金をためて、それに何回か。ほんと何回かって程度」

――専門的に習ったのはその時の数回だけ?
 「うん。だからちゃんとは弾けないですよ。内緒だけど(笑)」

――じゃあ、あとは現場で自己流でやったり、CDを聴いて耳で鍛えたって感じなんですか。
 「うん。理論に関してはその先生のすごくわかりやすい本を読んでいますけど、難しいことはできない。だからジャズ・ピアニストとか言われると、全然違う。そう言われると恥ずかしいぐらい。でもスタンダードはずっと歌ってましたね、自分の伴奏で」

――英語の歌詞に関してはどうなんですか。
 「もともと学生時代から好きだったんですけど、そうやって歌を歌うからには歌詞の意味ぐらい最低知っていないと。やっぱ田舎だから、それはどういう意味なんだという人もいますし。自分でもイヤだし。すごい悲しい歌なのに笑って歌ってるっていうのも恥ずかしいことだとな思って。そいでジャズ・ピアノと一緒に勉強始めたんです。それも学校とかに行ってたわけじゃないんだけど。自分で意味がわからない歌は歌わない」

――英会話は出来るんですか。
 「出来ますね、今は」

――独習で?
 「そうそう。ここまで来るのに何年かかったかっていうぐらいの感じ。家でも勉強したし、あと、もっと後になると外国人の友達が出来たりして。そうすると本当にもうしゃべらないといけなかったり。こんな話でいいんですか。こんなの役にたつんですか」

――こういう話をしたいんです。
 「なんか人生がばれてしまいますね。わたしの神秘のベールが(笑)」

――……
 「あ、芸者さんの話するの忘れた。父がいろいろなところで店をやっていた関係で、私、温泉街でも歌ってたことがあるんですよ。大学の4年の時に、もう後期は授業がほとんどないんでアパートを引き払って、家に帰らずに、父が店をやっている近くの部屋に住んで。そこが置屋さんだったんですよ。そこで芸者さんたちと一緒に寝食を共にするっていうか。卒業するまで半年間ぐらい、父の店でピアノ弾いてた。でも浴衣着た人が来るから全然なんですけど」

――そこもまた生臭さそうですね。
 「まー、芸者さんと寝食共にしてると面白いこといっぱいあるなと。なんか観察というか。あの時文才があれば本が書けてたなーとか。やっぱり田舎の温泉街だから流れてきてるわけですよ、いろんな人が。でこの辺だと、広島あたりから来て、うちはなんとかじゃけんとか言って喧嘩してたり。私はそこから大学通ったり卒論書いたりしてた。でその後は、鳥取行ってホステスさんたちって感じで。だいたい家が水商売で、なんかサラリーマンの人の家じゃ想像つかないような家庭で育ってますから、そんなには驚かないけど、でもその時は、これはちょっとなーみたいな。面白かった、置屋暮らし。みんな昼間、美容院行って頭をセットして温泉入って、で下はジャージなんですよね。お座敷始まるまで(笑)。で電話が入ってきて、なんとかちゃん、なになに館に、はい、みたいな。私はご飯食べながら見てて。で、今日は誰もお呼びがないなとか、いつも同じ人が呼ばれるなとか。サラ金始めるからってお金貯めてる人もいたりして。パートナーが塀の中に入っている間に、自分はそこでお金貯めて、彼が出てきたら一緒にサラ金をやるんだって」

――芸者ってそんな儲かるんですか。
 「うん。その人は売れっ子だったんですよ。5年か6年居て。そのかわり全っ然、お金使わないで生活してたけど。だって月に30万ぐらいの定期を組んでたから。あと、ちょっと売れなあかんから整形してくるとか言って、2〜3人で一緒に大阪の方行って整形して、みんな同じ形の鼻になって帰ってきたり。鼻筋がみんな同じだーみたいな(笑)」


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