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【1】処女作は〈アリんこ学級〉だった

松山(以下――)
――生まれはどちらですか。

浜田(以下「」)
 「出雲市。昨日のライヴやったところです」

――子供時代はそこで育ったんですか。
 「そうです。小学校の5年生ぐらいまであそこにいて、そいで松江市に引っ越してきて。父がもともと松江なんです。それからずっと、現在に至る。鳥取県に2年ぐらい住んだことがあるけど、それだけ」

――子供時代にピアノを習っていたかと思うんですけど、そういった家庭における音楽環境は?
 「まず、父親がすごい音楽好きで。特にギターが一番好きで、経営していたスナックにすごくたくさん集めてて。その頃は車のエンジニアみたいなこともしていたんだけど、お店をやる前、月給の3倍から4倍もするギターを給料日に買ってきてお母さんに叱られたりとか。そういう感じの道楽というか。少し流して歩いたりもしてたらしいし」

――お父さんはいわゆる演歌系が好きだったんですか
 「そうそう。あとベンチャーズとかも」

――ベンチャーズ? そういう世代ですか。
 「いや世代はもう少し前なんですけど。あの頃そんなエレキ・ギターとかあまりなくて、こっちのほうには。あ、寺内タケシだ、ベンチャーズより」

――寺内とちょうど同世代ぐらいですか。
 「うん、同じぐらいですね」

――まさにエレキ第一世代だ。
 「だからあの当時買ったギブソンは今すごい値段するらしいけど。まだあるから、あれは形見にもらおうかなと。狙ってる(笑)」

――お父さんは家でもよく弾いていたんですか。
 「もちろんお店でもやっていたけど、家でコタツで弾いたりもしてた。私と妹は、父と母が店をやっていたから夜は二人だったんですよ。留守番、家で。8時ぐらいに両親が出て行って、お店が終わる1時ぐらいまで。だから子供は観ちゃいけないような夜遅いTV番組をずっと観たり。大人の音楽もよく聴いてた」

――それは家にあったレコードを聴いていたんですか。
 「レコードは家じゃなくて、お店にありました。ジュークボックスや8トラ聴いてました」

――つまり歌謡曲ですよね。
 「うん、自分で選んでというのは全然なくて、そこにあるものを聴くって感じで。当時はラテン・ブームだったんですよね。子供の頃、60年代終わりぐらい。だからいつもジュークボックスでもそういうのがかかってて。夜、お店に行ったりとかはなかったですけど、店の2階に住んでた頃は下から聴こえてきたりして。あと昼間とか夕方とか、お店にいてもいい早い時間帯があって、そういう時もラテンを。だから今もラテンを聴くと当時を思い出す」

――それは本物のラテン音楽なんですか。それとも当時流行っていたラテン歌謡?
 「いや、本物のラテン。父親も演歌やエレキものだけを聴いていたわけではなく、いろんなものを聴いてました。ポール・アンカとか洋楽も。でもジャズは聴いてなかった」

――ピアノの練習は何歳ぐらいからですか。
 「5歳ぐらいから、近くにあったカワイ音楽教室に。始めはオルガン教室で、修了してピアノに。その後、松江に越してきてからは個人の先生に習って、中学1年ぐらいまで。だからあんまり上手じゃないです」

――特にクラシック音楽やピアノに強い愛着があったわけじゃないんですか。
 「音楽はもちろん好きだったんだけど、これで身を立ててとかは、島根県に住んでちゃできないと思っていたし。クラシックのピアニストを目指すには、手もちっちゃすぎた。そういうところで少し醒めてた。大人になってから、お店で歌ったりもしてたけど、それでどうっていうのは思いもしなかったです」

――ジュークボックスに合わせてお父さんやお母さんの前で歌ったりもしてましたか。
 「歌ってましたよ。お客さんの前でも歌ってましたね。なんかお金もらえてうれしかった。子供の芸として。真理ちゃん歌うまいからちょっとって(笑)」

――当時から上手だったんですね。
 「上手だねって言うけど、子供にはみんな言うから。私も全然意識はしてなかった」

――学校の音楽の成績はどうでした。
「良かったですね。好きだったし、楽しかったから」

――プロに対して失礼ですけど、真理子さん、音程がすっごいいいですよね。全然ぶれない。どう歌っても。
 「私はねー、音程には自信あります。ずっと後だけど、音程を外さないことを特に心がけながら歌ってた時代もあった。今はあまり考えませんけどね、そういうことは。でも、音程の良さは、練習したとか勉強したとかでは全然ない。音大卒でもないし音楽を本格的に習ったこともないわけで」

――子供の頃から、クラシック・ピアノの練習以上にジュークボックスでいつも歌謡曲を聴いていたというのが大きいんじゃないかな。
 「うん。だからアイドルの人たちはどうしてこういう歌でも出れるの?ってお母さんとかに訊いたり。この人はあそこの音が狂ってるじゃないのって。お母さんはよくわからないんで、でもそれがいいんじゃないのって(笑)。あーそうなのか、変なのー、みたいな」

――歌謡曲をヘヴィに聴きつつ、ピアノも弾けると、自分でもちょっと遊びで曲を作ったりもするんじゃないかと思うんですが。
 「今のヤマハの音楽教室などではそれをすごく重点的にやってて、ちょっとしか弾けないのにもう自分で作ってみようとか、驚かされるけど。私たちの頃はピアノ教室ではそういうのはなかったし、個人的にもそんなことは全然。私、オリジナルをやりだしたのは、ほんと10年もたってないぐらいなんです」

――それまでは1回も作ったことなかったんですか。
 「小学校の時の学級歌を1度作ったことがあります。歌詞をみんなで作ろうとか言って学級会で作って。で曲を誰がつける?ってことになって、私、音楽得意だったのでやりますって。それぐらい」

――それって何年生の時?
 「5年生」

――評判はどうでしたか。
 「素晴らしかったですね。ハモリとかも考えてて」

――今も覚えてる? ちょっとさわりだけ歌ってみて。
 「私のクラスには〈アリんこ学級〉っていうあだ名がついてて、“アリんこ、アリんこ、アリんこ学級”ってそこでハモっていくんですよ。ドミソで(笑)。過去の栄光なんですけど。その時は音楽の先生にも誉められたし」

――じゃあ、それが処女作といっていいんですかね。
 「そうですねー、〈アリんこ学級〉(笑)。“ひとりの力はみんなの力”って」

――いいですねー。女王アリは誰だったんですかね(笑)。
 「女王アリとかまだそんなことは知らなかったけど。“どんな大きな獲物でも、えっさほいさと手を貸しあえば、お山の上にも登っちゃう〜”とかね。“おーやまーのうえにーも”って、なんか今とメロディラインはあんま変わらないんですけどね。ドレミファソラシドって。それが初めてで、それからは全然。あと、その前に父親がピアノで気まぐれにコードを教えてくれた。右手でドミソをやって、左手でベースを弾くっていう。右手でチャチャチャチャって3連やって、左手でターンタターンっていう、あのクールファイブの曲を。クールファイブの曲を父親がやりたくてその伴奏を教えてくれたんですよ。だからいきなりコードでやる曲がムード歌謡だったんですよ」

――〈長崎は今日も雨だった〉?
 「そうそう、あのへんは全部3連で。Cって書いてあるのはドミソなんだって。小学3年生ぐらいの時に教えてくれた」

――小3からムード歌謡を歌ってた。
 「うん。その頃は譜面を見ないとできなかったけど。それで合わせてやったりして。そしたら父親も面白いから、どんどん映画音楽の本だとかいろんな本を買ってくるんですよ。私も面白いから〈ゴッドファーザーのテーマ〉とか〈太陽がいっぱい〉とかの映画音楽やったり、それこそ明星、平凡に載ってる歌謡曲やったり。で、ギターがやっぱりやりたいと言って、子供用のちっちゃいギター買ってもらって。〈禁じられた遊び〉ぐらいはできますけど、結局コードが押さえられなくて、練習がピアノほどはできなくてやめちゃった」

――その話を聞くと、やっぱりお父さんの存在は大きいですね。
 「そうですね、私はお父さんっ子だったし。なんか俺たち仲がいいよな、みたいな。4人家族だったけど私と父親は仲良かったんですよ。お前は話がわかる、みたいな」

――ピアノは中1ぐらいまで続けた後はしばらくやってなかったんですか。
 「その頃、もうコードは全部知っていたから、明星とか平凡見ながら自分で伴奏して歌うっていうのはやってた」

――歌謡曲ですね。
 「そうです。妹と一緒に歌ごっこ。ピアノの取り合いになるから変わりばんこで1曲づつ歌って」

――妹さんもピアノ弾くんですか。
 「妹もピアノ習ってたんで。あの人のほうが上手だったぐらいですよ。私がやめる時に一緒にやめちゃったんですけど。なんでピアノをやめたかというと、部活動を始めて、帰りも遅いし」

――ちなみに部活は何を。
 「体操部。私、コマネチ(ルーマニアの体操選手ナディア・コマネチ。76年のモントリオール・オリンピックではアクロバティックな美技で10点満点を連発し、世界中を驚嘆させた)の時代なんで。今のワールドカップじゃないけど、コマネチが金メダルを取った翌年、77年が中学1年生だから、体操部すごい人数だったんですよ」

――バック転とかやっていたんですか。
 「やってた。それで骨折ったりして。それから怖くてできなくなって。中指を折ったんですよ。あんまりきれいに折れたからきれいに治ったんですけど。まー、運動神経あまり良くないんですけどね。それでも3年間、キャプテンだったんでやりましたけど」

――それからまた徐々に音楽に戻っていったんですか。
 「家に音楽がすごくあったし。店に有線がつくようになって、家にもひいたんですよ。で、父親が全部の部屋に配線してどこでも聴ける状態っていう。ほんとはいけないんですけど…。そういうことしてたんで、もうレコード買ったりとかしなくても好きなものはリクエストして録音できる状態だったの」

――あの時代、70年代後半の歌謡曲っていうと沢田研二とかピンクレディーとかですか。
 「あと、百恵ちゃんとかね。百恵ちゃんすごい好きだった」

――妹との歌ごっこでもそういうのを歌っていたんですか。
 「うん。あと、昔の赤本っていうのが家にありました。それはもうオリジナルとか知らなくても譜面だけで歌って。あと父親と日曜日の朝にちょっと合わせる時間というのがあったんですよ。ちょっとやってみろって感じで」

――中高時代はバンドとかやったことはないんですか。
 「バンドはわたしは全然ないんですよ。考えてみると高校生の時(80〜82年)はあんまり音楽も聴いてなかったですね。進学校だったんですよ。といってもすごく勉強をしてたわけじゃないんですけど。部活はバトミントン部で、練習もすごくきついし音楽から一番離れていた時代ですね。だからあの頃流行ってた曲はあまり知らない。私の歌謡曲の歴史は中学校時代で止まってるんです。あと、大学に入ったら今度はジャズとか洋楽を聴くようになったんで」


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